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平凡な人間の、平凡じゃない毎日の記録帳
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今日後期の手続きやら本の返却やらで学校に行ったら、学園祭のお揃いTシャツが並んでました。
そこになんとも懐かしい言葉が・・・
見つけた瞬間、暑苦しい音楽室で熱い熱い青春を送っていた中学時代にタイムスリップ。


私が音楽に対して一番熱かった時代は、どう考えても中学時代だったと思う。
いろんな意味で過酷だった。
練習もものすごく厳しかった。
顧問のK先生は自分たちで自由に合奏をすることを許さなかった。
メトロノームと先生の指揮棒以外のリズム取りを許さなかった。
練習時間にノリで懐かしい曲を吹くなんて言語道断で、そんな時間があるなら今出された曲を練習しろと。
結構きつかったよ。
でも、忠実に守ったよ。宿題は出さなかったけど、先生の指示は守った。

吹奏楽部の実績は、認めてくれる先生は認めてくれるし、それを快く思わない先生は、逆に吹奏楽部員が朝練習の時間をちょっと超えてしまっただけで私たちを廊下に正座させ、その事実を重く見たK先生は1週間くらい部活停止にもした。
それくらい、風当たりの強い(実際部活への予算はどうしても楽器や付属のものの購入費やらで吹奏楽部はお金がかかるため)優遇されがちで、野球部だった私のライバル(素因数分解を理解できなかった私を笑ってバカにした)は「なんでオマエラに高い額がおりるんだよ」と私に文句を言った。
でも、認めてくれる先生も、ちゃんといたのです。
私たちの定期演奏会の司会を毎年してくれた社会科のS先生(奇しくも野球部顧問・笑)は、私が試験で福沢諭吉の福を「しめすへん」ではなくひとつちょんの多い「ころもへん」で書いてしまったのに間違えて○がつけてあったのを正直に伝えたら

「さすが吹奏楽部員だね。正直で立派です」

と言って×に訂正、減点してくれました(笑)
でも、「さすが吹奏楽部員」と言われたのは、例え成績が落ちようと私の中で誇りだと思えるエピソードのひとつです。


なんだか何を書きたいんだかさっぱりわからなくなってきましたが、厳しい練習の中で、合奏の時間はやっぱり楽しくもあり、そして先生を怒らせる絶好の機会でもありました。
でもやっぱり、合奏の時間が好きでした。
パートごとの指導が終わって、先生が「全員で」と言う代わりに、たまに

「Tuttiで!」

とちょっと格好良く言ってくれる瞬間が、最高に嬉しかったなあ。
そう先生が言って指揮棒を上げる時、部員全員声を揃えて「はい!!」と言う瞬間もまた、最高に嬉しい時間だったのでした。
私は音量だけは誰にも負けない人間なので、Tuttiでも自分の音を主張します(笑)
うざい奴だっただろうなあ。



そんな暑苦しすぎた中学時代だったので、高校でオーケストラ部に入ったら、あまりの自由な体質に本音を言うと拍子抜けした記憶があります。
練習方法からなにからなにまで、自由度が違った。
先生の指揮棒じゃなくて、パートリーダーの木魚叩きながらの指導が許される、というか推奨される環境が、びっくりだった。
でも、中学のレベルよりも、高校のレベルの方がずっと高かった。
(吹奏楽とオケじゃ質が違うから一概に比較できないけど)
厳しい制約だけが、良い演奏を生み出すとは限らないということを学んだと言う点で、違う体質のふたつの部活に所属できたのは大きな収穫だったと思う。

・・・でも、高校では「Tuttiで」とは言わなかった気がするけど、120人の部員数にも関わらずTuttiでも目立とうとしていた私のど根性だけは変わらなかったかもね(笑)
楽器を持つと、私は目立ちたがり屋に豹変するのですよ。
普段は大人しいけど(誰も信じないって?)




大学のトイレに貼ってあった張り紙を見て、「Tutti」が今年の学園祭のスローガンだということを知りました。
Tシャツ買うか?
そう思っちゃうほど、この言葉が懐かしかったのと同時に、今通っている学校のことが好きなんだろうな、と思った一日でした。

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2日間、熱出したり頭痛すぎたり何故か泣いたりしておりました。

だから本当はブルーな内容を書くはずだったのですが、今はブルーじゃないのでやめます。

思い出話に急遽変更です。気分屋でごめんなさいね。









最近スキマスイッチのアルバムばかり聴いているのですが、実は一番好きなアルバムは持っていません。(だって貧しい生活なんだもの〜♪)

聴いているのは一番新しいので、好きなのは一番最初の。

その最初のアルバムの中の一曲が、タイトルの「えんぴつケシゴム」です。

大曲ではないんだけど、私にとってはかなりのツボヒット曲なのです。

歌詞は著作権とかで引用して良いのかわからないのでこちらをご参照下さい。





だいぶ違うようででも似たような経験を、私はしました。小学校の時に。

「イロコイ」の話は昔から誰にもしなかった私が告白するんですから、これ読んだ皆さんラッキーかもしれませんよ〜。

まあ「イロコイ」という言葉を当てはめるにはあまりにも幼稚なんですが・・・







小学校に入って、私はDちゃんと同じクラスになりました。

幼稚園も一緒だったんだけどクラスが違ったので、それまで接点はありませんでした。

Dちゃんは、4月1日生まれで、色が白くて、ちっちゃくて可愛い男の子でした。

しょっちゅう同じ班になり、信じられないかもしれませんがその頃はリーダーシップなんて取っていた私はたいがい班長で(自分で書いても信じられない(^◇^;)、Dちゃんは班長を支える忠臣でした。

いつも仲が良くて、席が隣になるとふたりでおしゃべりしすぎるくらいしゃべってました。

図工の時間に、反対側の男の子がDちゃんとばかり話す私をやっかんで、私が描いていた絵の中の人の顔を塗りつぶして私が大泣きする事件が発生し、図工の時間が急遽学級会になったこともありました(笑)

結局絵の中の人物の顔の修正は不可能だったのに、その絵で県展佳作を取るという「図工美術3人生」の私の唯一の金星になったのですが・・・





しょっちゅう同じ班になったので、クラス会前の「班の集まり」もしょっちゅう一緒になりました。

班長(面)の私は、進んで自分の家を「班の集まり」会場にしました。

今思えばこんなボロ家に何故みんなを呼んだのかわからないのですが。

とあるクラス会で、我が班は「3匹の小ぶた」を演じることになりました。

ところが、班の皆さん小ぶたのお面は率先して作るのに、肝心要の「家」を作ってくれない。

(当然っちゃ当然だけど)

3軒の「家」だけ完成しないまま、その日は解散、もうすぐ本番。

翌日の日曜日。

Dちゃんだけ来てくれたの!

私と我が家の父と祖父とDちゃんで、段ボールで家造り。

ところが、「3匹の小ぶた」の内容を知らなかった父と祖父(しかも祖父は大工)、藁の家も木の家もめちゃくちゃ頑丈に作っちゃったのでした(笑)



でも出来映えは良かったらしく、クラス会終了後は「家の取り合い」になったそうです。

これ父の記憶です。私は全く覚えていないのです^^;

私が覚えているのは、困った班をなんとかしようと、Dちゃんが手伝いに来てくれた。それだけ。





その後もなにかとあった「班の集まり」。

もうひとつ覚えているエピソードは、「班の集まり」終了後もDちゃんだけ残って、ふたりで遊んだこと。

ところがその日は合唱団の日で、練習が始まる前に我が家に当たり前に寄っていたみこちゃん(再登場♪)が来てしまい、私はなんだか恥ずかしくて慌ててDちゃんをちょうど飾ってあった雛人形の「ひな壇の下」に隠れさせたのでした。

ばれたんですけど。

なんでしょうね。あの気恥ずかしさは。





4年生になっても、同じクラスでした。

やっぱり同じ班になりよくしゃべり、近くの席のおいちゃんに「仲良しだねえ」と呆れられたけど、私はDちゃんは可愛い弟分くらいにしか思っていませんでした。

そして、「えんぴつケシゴム」っぽい事件が。

その頃流行った「カード式ボールペン」をDちゃんが持っていたのです。

テレホンカードサイズにボールペン2色がはめ込まれたやつ。

Dちゃんは、ちょっと得意げでした。

私は、ちょっとうらやましかったのでした。

なので、ちょくちょく借りました。

「まるつけするから貸して」って感じで。





そして・・・壊しました。





偶然ぶつけてしまい、フレーム部分を割ってしまったのです。

「カードの中にはめ込む」から便利で、かっこよくて、楽しいのに、私はそのカードを壊してしまった。

Dちゃんはちょっと複雑そうだったけど、すぐに許してくれました。

Dちゃんの優しさが、逆に私を申し訳なさでいっぱいにしました。





それ以降のDちゃんとの日々の記憶は、私にはありません。

5年生になって初めてDちゃんと別々のクラスになり、その後しばらくして関西に引っ越してしまったのです。

「男の子と女の子はクラスが変わったらもう話さない」みたいな暗黙のルール(もしかしたら私だけかもしれないけど)で、転校する先の住所も聞けませんでした。

だから、小学校の卒業アルバムには、Dちゃんはいません。

私が持っているのは、幼稚園の卒業アルバムの最前列の真ん中に座っている小さなDちゃんの写真だけ。

その後私も「カード式ボールペン」を手に入れたけれど、お詫びと一緒にDちゃんにそれを渡すことは、できませんでした。







私の中でDちゃんは、ちっちゃいままです。

私よりも身長が低くて、はしっこくて、声が女の子みたいに可愛くて、しょうもない班長の忠臣。

今はきっと声変わりして、背もすごく高くなってるかもしれないし、私よりずっと頼れる人になってるに違いないけど、そんなDちゃんを上手く想像できない私です。





いつか会えたらいいな。

「ありがとう」と「ボールペンごめんね」を言えたらいいな。





ずっと昔の、私の「えんぴつケシゴム」のお話です。













余談:

父は昔、選挙で誰に投票したらいいかわからなかった(おそらく魅力的な人がいなかったんだろうと思う)時に、Dちゃんのフルネームを記入したことがあるそうです(笑)

父よ・・・なにゆえ??

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物をなくすことは誰よりも得意な私ですが。

整理整頓なんて言葉は私の真逆にありそうなくらい、頭の整理も箪笥の整理も苦手な私ですが。





ふと思い立って探してみたら3つの「思い出の品」が、ちゃんと出てきました。

3つの学校に所属していたんだな、という印が。





?関東吹奏楽コンクール B部門 参加章



?高校の校章



?ホ○リ大学の校章?安全ピンタイプとピンバッジタイプ







うーん、感慨深い。

ちなみに中学は校章なかったのです。だからどんなマークだったかも思い出せない。

でも、その中学から私は、吹奏楽コンクールの関東大会に出たんだな。

私の記憶違いじゃないんだな。

あんなに熱かった、そして若くて幼かった私が。





高校の校章は、別の学校に進んだ友達に「ライオン丸」と笑われた。

ちょいださ。

そして、この校章を付けていた仲間の中で、おそらく私が「不真面目女王」だったに違いない。

校則は守ってた上、目立つタイプじゃなかったのでみんなは覚えていないだろうけど、私には数々の武勇伝がある。

高3の時、数学の補習を自ら希望したのに、朝6時台の電車に乗るのがおっくうでこっそりサボって3日目くらいで先生にバレ、その日の数学は後ろで立って受けた。

もうちょっと正確に言うと、「立たされて」受けた。

今教育基本法改正だの騒がれているけれど、そんな現代のほんの少し前に「生徒」だった私は今の先生はできないであろうお仕置き?はたいていのことは受けている。

まあ高校時代は少なかったけど・・・。

中学時代に遡れば、部活で朝練を終えるのが遅くなり、気性の荒い生活指導の先生が激高して全員廊下で正座させられたこともあった。



話を元に戻して、高校の「武勇伝」。

やはり高3の時、英語が「イトーシ」になった。

「イトーシ」のおかげで不良の私でも予習をするようになったのだけど、その英語の授業がある前日の夜、私はウィーンフィルの演奏会に行く予定があった。

こりゃまずい、睡眠時間が危うい。

・・・じゃあ授業中に寝ておこう・・・

そう決意し、そんなに眠くないのに化学の時間に突っ伏した。

すると、私達と母校が同じ古株化学の先生は、私を名指しで怒った。

私は怒られて恥ずかしいよりも、あれ?と思った。

この先生、嫌味っぽいけど名指しで怒ることってなかったよなあ・・・

結果、卒業までの1年間でその先生が寝ている生徒を名指しで怒ったのは、私ひとりだった。



そんな不良娘が、同じ校章をつけていたのです。

ごめんね、「ライオン丸」仲間のみんな。

みんな、校章持ってるかなあ?





ホ○リ大学の校章は、要らない(笑)

何故とってあるのかも不明。

このマークには、一応確か由来があったはず。

「柴ちゃん」が発見した破傷風菌だかをモチーフにしていた気がする。

歴史上の偉人として柴ちゃんのことは尊敬している。

ただ、あの学校を誇る気には、まだなれない、弱虫の私。

いつか、胸を張って「ホ○リ大学」の本名出身を名乗れるようになりたい。

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いちごちゃんからいただいた「中学バトン」を答えてみたら、それをきっかけに芋づる式?にいろんなことが頭から出てきた。

忘れないうちに、書いてみようかななんて。





私の中学3年は、それはそれは忙しかったのかもしれない。

部活で忙しかったのも勿論あったけど、それに加えて沢山の「習い事」をしていた。

今では信じられないけれど、私はその忙しい毎日をそれほど苦にはしてなかったように思う。

では、一週間のスケジュールを列挙。



月:部活後、学校帰りにピアノ

火:部活後、塾(市○学院)

水:部活後、書道

木:部活後、合唱団

金:部活後、塾(○進学院)

土:部活午後練後、みこちゃんのお母さんに英語を教わる

日:部活午前練、午後はたいがい友達と遊ぶ



すごくない!?

っていうか、どこにそんな体力あるのよあんた!って感じよねえ。

そして、意外と(!?)お嬢様みたいに見えないか??

実物は超ド級の庶民だっていうことくらい皆さんよーくお判りだと思いますが。





少し、付け足します。

ピアノは、またもや超が付く練習嫌いでした。

先生には本当に申し訳なかったのですが、中学に上がった頃からは練習0で本番一発勝負の有様でした(゜ー゜;Aアセアセ

ええ、勿論、初見ですよ。

レッスン中はものすごく厳しかった先生の前で、初見。

度胸と、多少の初見能力は付いた気がしますが、こんなだったのでピアノは本当に上達しませんでした。

でも先生はなんてったってN君のお母さんなので、部活には深い理解を示してくれたし、部活内では「Nりんの綺麗なお母さん」であり「熱心な保護者」でした。

そう言った意味でも、いろんな面から私を支え、応援してくれた恩師のひとりです。

練習は嫌いでも、先生とピアノは大好きです。





塾でも、楽しい思い出ができました。

まず、担任(というのか?)の先生がとても良くしてくれた。

勿論学校の先生とは違って、「学力」とか「ヘンサチ」で私を見ていただろうし、その「ヘンサチ」のより高い学校への合格実績を作るために勉強を教えてくれたのかもしれない。

でも、良い先生だった。

高校に入学してから一度会いに行った時も、高校生になった私を見てとても喜んでくれたし。

それに、良いクラスだったと思う。

みこちゃんを筆頭に楽しい仲間がいっぱいいた。

学校でも仲が良かったOちゃんと3人で通ったなあ。

一時期、Oちゃんと私は席が並んだことがある。

そして、偶然にもOちゃんの前で私の斜め前が、同じ学校の超イケメンでドクターの息子というT君の席だった。

T君と私はちゃんと話したことがないけれど、2人3脚で運が良いのか悪いのかふたりで走ったことがあり、T君を好きな子達に羨ましがられた。

その席順だったある日、Oちゃんが授業中に突然



「spiちゃん・・・まずいよ・・・」



と顔を歪めて話しかけてきた。

何かと思って軽く指さす方を見つめたらそこに見えたのは





だぼだぼずぼんの上からはみ出したT君のトランクス





だったのです(^◇^;

中3の乙女ふたりには、かなり刺激的でした(笑)

でも、私が取った行動は





吹き出す





でした。。。

笑いすぎて、授業をしばし妨害してしまいました。

先生は驚いていたけれど、怒りませんでした。

ごめんなさい。先生とクラスのみんな、そしてT君。

当時流行り始めただぼだぼのずぼんをお洒落に着こなしていたT君だったけれど、私はお洒落よりなにより、そしてあなたの顔よりもトランクスがすぐに出てきてしまいます。

「見せパン」なんてなかった時代だもの。







こんな私は、やっぱり「不良」だったのでしょうか。

こんなに暴露している時点で「お嬢様」にはどうやっても見えないと自分でも悟りました。

そして、こんなハードスケジュールも当時の健康体で難なく乗り切った昔の私を、ちょっぴりうらやましいと思いました。





さあて、中3時代には戻れなくても年相応の健康体を作るべく、明日からも頑張るぞ。

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